全ての事物はファッションと芸術に帰結する

昔は「いかにもツールらしい、実用性たっぷりのもの」や、「露骨で野心が見え隠れする戦略」を比較的好んでいたのですが、最近はむしろファッション性や芸術性をまとったものに興味を惹かれています。

というのも、本当の意味で突き詰めていくと、そういったツールや戦略も含むあらゆる事物は、ファッションや芸術に昇華されていくものなのでは、と考えるようになったためです。

つまり高度に完成されたものほど、ファッションや芸術の形をまとっているのではないかと。

磨かれたモノは「身体の拡張」性を有し、やがてはファッション性を宿す

いま読んでいる「融けるデザイン」という本に、こんな話があります。

ヒューマンインターフェイスの研究では、石器時代のような道具のあり方、すなわち原因と結果が直接的な関係になることをひとつの目標とするようになった。たとえばハンマーのように、手に持つとそれ自体を意識せずに、釘を打つこと(対象)に集中できるようなあり方を理想であると考えるようになった。これを「道具の透明性」という。透明というのは比喩であり、道具を利用している最中にそれ自体を意識しないで済む状態、あるいは意識しなくなる現象のことを指している。

(中略)

道具が透明化するということは「自分の身体と同じような状態」になるのである。そしてこの意味において、道具は「身体の拡張」と呼ばれる。

少々メタな話で難しいのですが、なるほどと。

例えば、スマホを“コンピューター”と認識して日頃から触れる人はほとんどおらず、無意識のうちにそれを用いて、脳や眼などの身体能力を拡張させているわけです。検索をして、自分の中には本来ない知識や思考を取り入れたり、ARを利用して、視覚情報を増幅させたり。

さらに、実際はもっと進んでいて、もはやスマホはある種のファッションアイテムとしての地位を確立しています。特にiPhoneなんて象徴的ですよね。

そして昨日、たまたま、もっとこれを身近に感じられそうな例に出会いました。


あー、これはすごく分かりやすいなと。道具が極限まで人間に最適化された結果、ファッションへと昇華する/した例。

極められたコトは、芸術へと昇華する

そんなことを考えていて、ふとこんな話も思い出しました。


逆に言えば、表現という芸術性を帯びれない程度の戦略はその程度、というわけです。

ここまで挙げた例は全て「モノ」の話でしたが、これを考えると、戦略のような「コト」にも同じことが言えるんだろうなと思ったのです。


そんなわけで、高度な技術を持ってしないと、「ファッションや芸術にしか見えない事物」なんてきっと作り上げられないんですよね。

「ファッション性や芸術性を帯びて、気取ったものが好めない」という話もよく聞きますが、それってかなり損しているのかもなと、最近はそういう経緯でつくづく思います。

よっしー
1995年大阪生まれ 音楽とインターネット育ち。 詳しくはこちら。